イナバウアーってジャック・バウアーの仲間かと思ってた

 とりあえず、今回の金メダルがCDにしか見えないんですが金曜日。とにかく、メダルが取れて良かったですね。夕刊じゃ一面ですし。僕もイナバウアーがなんなのかを調べたら、こんなんらしい。さすがはてな。僕もはてなの住人に戻ろうかなぁ(戻る気はないけど。独自ドメイン使えないし)。


 BigBang: 奴隷になるなら1人で行け----僕らは「人力検索はてな」ではない。愛・蔵太の気ままな日記 - 客観的に確認可能な事項について断定的に何かを言っている人間は、「人力検索はてな」になる覚悟と責任と自覚を持て、という可能性は否定できないという二つのエントリを見比べてみて、少しだけ考えてみる。僕の場合はどちらの意見も納得できるのだ。なんでこの二つの意見のどちらにも首肯しうるかというと、多分前提として価値観の違いなるものがあるんじゃないか、と思う。

 前者から僕が読み取った事は、「議論の相手に価値観を押しつける必然性はあるか」という事であり、後者は「反駁しようとするならば、まず論拠(証拠)を示せ」という事になるだろう。この問題に似た構造を最近、僕はテレビで見たような気がする。ホリエモンメールのそれだ。武部さんの息子に金を振り込むようメールで指示した、という話があった。もちろん武部さんは否定する。しかし、民主党にはそれを裏付ける証拠も出てきた。ところが、その証拠はあまりにも杜撰だった。民主党は武部さんの否定に反駁するしかない。そこで自民党は言う。「反駁しようとするならば、まず論拠(証拠)を示せ」……おや、何処かで聞いた話ではないか。


 問題は何に対して証明が必要かである。話は変わるかも知れないが、ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記 - 『ホテル・ルワンダ』なんか何の役にも立たない!  この人を見よ!も見比べてみた。確かに、「朝鮮人虐殺」の例を取ってみれば、それこそ過去に愛・蔵太さんが調査しているように、被害者数については諸説があり、「本当は何人だったのか」という事に対して資料(証拠)にあたってみると、説との差異が見られる。ただ、冒頭の台詞を引用させて頂くと、

 ただし「「関東大震災における虐殺された朝鮮人はいなかった」「関東大震災における朝鮮人虐殺は半島系の人の捏造である」と愛・蔵太(=俺)は言っている」のような誤読と、それに基づく言及はしないでください。そのような意図はありません。

と、蔵太氏もおっしゃっているように*1被害者数自体は懐疑的だが、存在自体はあったとするのが妥当といえる。こう考えるなら、「亡くなった方々の数」については論証が必要だし、論拠も必要だろう。しかし、町山氏が『ホテル・ルワンダ』を語る時に朝鮮人虐殺を挙げた事と、その事件自体に幾分信じるには与しにくい事象が含まれている事は全く関係ない

 ここで最初に述べた価値判断の部分に戻る。虐殺そのものについての論を立てている人に対して、その虐殺は疑わしいよ、なんて言っても意味がないのである。だって、論じているのは個別の虐殺の信憑性ではないのだから。まぁ、お互いの誤解から生じる部分はあるとは思うのですが、「何について議論すべきなのか」「物事の本質はどこなのか」、そして「お互いが重きを置いている部分は何か、そしてその重きとなる部分は論証が必要なのかどうか」という摺り合わせ(?)みたいな考えは必要だと思うのです。結局は国語力の問題なんでしょうかね。ああ、これがゆとり教育の弊害かぁ……(なんつーオチだ)。

*1:蔵太氏は結論にて「被害者数は2000人ぐらいいたと考えるのが妥当」としている。