恣意的な運用をされる懸念の法律が成立するのなら、それは法律ではなくて為政者の問題だ

 ニュースとか見ると何故か川上さんの方が目立ってる気がするなぁ木曜日。いや、他意はありませんよ。昨日は早めに寝てしまいましたが、今日の知人のブログ等を見回してみるとこの話題一色。今度から「GOSICK」漫画版には直木賞受賞の文字が躍るんだろうか?……いや、似合わないなぁ、何となく。今後も棲み分けをしていくのかも知れませんが。


 著作権法にしろ、人権擁護法案にしろ、2ちゃんねる等で反対の声が上がっている法律改正案について、反対の論拠として恣意的な運用をされうると言うことがよく挙げられています。前者だったらダウンロードまで違法にするのはいかがなものか、後者だったらとあるクラスに対する正当な批判が出来なくなる、とか。憲法9条にも似たようなことが言えるかも知れませんね(こう書くと逆に「えー」とおっしゃる方がいそうですが)。

 ただ、僕の場合「恣意的な運用をされうる」ことを論拠として反対の声を上げるのであるなら、それは法律よりも、そもそも恣意的な運用をしうる社会の方に問題があるのじゃないかな、と思います。要は法律を作る側が、自分の都合のいいようにするために作ってるんじゃないか、と言う邪推であったり。つまりは運用側の信用度の問題なわけです。

 じゃあ法律を作る側を変えれば同じ法律でも構わないか、と言うと、一度運用者に対する疑念が沸いたところで、運用者そのものが変わってもそれらが解消されることは滅多にありません。それはむしろ諦めに近いもので、誰がやったって皆同じと言う心境にも通じるものがあるのでしょう。閑話休題


 もし現在の法律に問題点があって、それを解消するために新しく法律を作るのだとするなら、まずは現在の法律の枠内でそもそも厳格に適用されているのか?……という疑問を解消するために動くべきでしょう。そして、実情にあった現行法の運用がされない限り、権利を笠に着たヤクザと言う誹りは永劫に続くんじゃないかな、と思います。