法律なんかどうでも良いんです、ただ自分の見たくないものを見たくないだけなんです

 口が回らない水曜日。ネットには色々なトラブルがあり、同時に現実のニュースに対する討論も含まれます。ただ、どうも風潮として感情論の前には論理的な飛躍も許される……と言うのは何となく違うんじゃないかな、と思ったのです。片方で法律的に照らして正しいといい、もう片方で「こんなヤツに人権はない」といい……あまりにダブルスタンダードでそれってどうなのよ、と言う気分になります。それだったら最初から「こいつ嫌い」で通してくれればいいのに、声の大きい人が無理に論理づけようとするから、それに流されているだけ何じゃないかな、と思います。どの話題とは言わないけれどね。


 森博嗣さん「犯罪抑止のためには、犯罪報道をしない方がいいんじゃないか」という話をしていましたが、僕はそれは半分当たっているし、半分間違いなんだと思います。例えば、2ちゃんねる等の犯罪予告書き込みなどはこれが有効なのでしょう。騒がないのだから問題にもならないですし、面白みも一気になくなります。少なくとも劇場型犯罪を狙っている人たちには有効でしょう。

 その一方で、絶対犯罪報道というものは無くならないんじゃないかと思います。みんながそれを求めているから報道されるのであり、自分が巻き込まれるという予想とは別の所で、誰かをスケープゴートにしてしまいたいという心の闇みたいな部分はどうしても残ってしまいます。だから人間は「物語」を楽しめるのですからね。それは古代の文献から今のあらゆるメディアにおいて変わりないように思えます。少年犯罪の実名化を求めるのも、厳罰を求めるのも、単に自分の偽善を満足させたいがためじゃない?……と、捻くれた僕は思ってしまうのです。そして、そうしたスケープゴートがなくなった時、その悪意はどこに向かうんだろう、と不安になってしまうのは考えすぎでしょうか。


 特に一つの方向性に疑問を持つことが異端視される社会だと、その傾向は強くなるのだと考えます。そして、その疑問が本当に異端だったのかどうかは例えその社会が失敗したとしても検討されることは全くなく、異端とされていた方向に舵を切るだけなのです。うーん、これは僕が難しく考えすぎているだけなのでしょう、か……?