気付けよ、聖火リレーを今の形にしたのはヒトラーなんだぜ?

 オリンピックが平和の祭典の役割よりも先に経済効果と国威発揚が目的なのは当たり前じゃないか土曜日。そもそも、本当に純粋に平和の祭典で、全世界の注目するイベントじゃなかったらどの国も呼びたがらないだろうし、悪い言い方をすれば売名行為になるからこそ、オリンピックにもワールドカップにもみんな手を挙げるのだ。何となく数十年後、Wikipediaに類するサイトの北京オリンピックの項には、ベルリンオリンピックと似たような文言が並ぶことになるのかも知れない。どうなるかは僕には分からない。最終的に歴史に評価を下すのは、いつも勝ち残ったものばかりなのだから。


 人間が行動する時、それはほとんど怒りに寄るものかも知れない、と最近思うようになってきた。これはひどい」という感情と言い換えてもいいかも知れない。怒りが行動要因なら、ブログの炎上も、山口事件も、そして今回のような聖火リレー騒動を見るにつけ、論理で人は動くことはなく、感情によってのみ動く、ということには至極合点が行く。営業活動もそうで、「顧客が感動すれば、行動に移す」とはよく言われることだ。だから、営業は顧客自身のメリットをどう示すかに腐心するのだが。閑話休題


 一昔前は、怒りによる行動を起こそうにも、自身で同志を募らなければ集まっては来ない。しかしネット時代、同志を募ることは非常にたやすくなってきた。これは現体制側の人間は結構驚異になるかも知れない。ネットの団結はいつ自然発生的に登場するか分からない。さらにそれが怒りによるものなら、論理的な説明をいくら並べたとは言え、納得さえすれども、翻意させることは難しい。ただ、感情を交えた論理的な反論なら話は別だ。その場合は、相手自身を抑えるか翻意に導く可能性がある。最も、相手の怒りが根深かったりして余計に禍根を残す可能性もあるという諸刃の剣だが


 僕自身は感情的に反対の意を示すのは納得が行っていない。だから、なるべく聖火リレーの話は出さないようにしてきたつもりだが、どうも中国共産党批判ばかりの声が相次ぎ、チベット擁護という本来の目的が忘れられないだろうかという懸念はあった。もちろん、Free Tibetを叫ぶ皆さんを否定するものではないけれど。どっかで僕の中では本来の『人権擁護』という意味合いが忘れられているような気がして、はっきり発言していいのか? という疑念に囚われるのだ。


 ただ、北京オリンピックにも、地デジ対策にも、ダビング10にも、マスコミにも一斉に拒否の意志を伝える一つの方法はあるんじゃないかと思う。

 それは、テレビを消すこと

 美辞麗句を並べ立てるだけのマスコミは要らない、という時代になりつつあるのかも知れない。