メディアリテラシーという名前の闇
なんかインターネットが悪者にされているような気がしないでもない長崎小6女児殺害事件。
ちょっと「インターネットの問題」と「少年犯罪の問題」を分けて考えないと物事の本質って見えてこないんじゃないかと僕は思う。
まず前者に関してなんだけれど、子供に限らず、大人ですらインターネットの公共性を意識していない人がかなり多い。
基本的にインターネット上の情報は『ログ』=記録であるから、消去されることは滅多にない。にもかかわらず、インターネット上で誹謗中傷行為が行われるのはなぜか?
僕が考えるに、それは『インターネット上の仮想人格』を対象として『仮想人格』に対してコミュニケーション行為が行われる分、その現実感というのがかなり緩和されることに原因があるんじゃないかと思う。
たとえば、ハンドルネームを場所によって変えて、各掲示板に乗り込んで議論をし出す、そして他者の話には基本的に耳を貸さない、という人がいる(仮にC氏とおく*1)。
この人の場合、事件の加害者の彼女と似ているように僕には思う。
ともかく、インターネットという分野はきわめて開かれた、公共性のある分野である。
それと同時に、匿名性にまみれた二律背反的な空間でもある。
だが、電車男などにみられるコミュニケーションの例は、
たとえ匿名空間だとしてもコミュニケーション行為は十分なされうるという一つの例示とみていいだろう。
問題はそこで『誰かに見られる』という意識が欠如している場合だ。
加害者の彼女はネット日記でクラスに対する不満を晒していた。
おそらく遠からず、彼女の日記は探し当てられ、2ちゃんあたりに掲載されるだろう。
果たして、そのかかれたものに『相手の存在』はあっただろうか?
一応このブログも、Google避け等々はしているとはいえ、不特定多数に対してかかれている。
それは同時に、自分の知り合いに対しても書いているということだ。
不特定多数に対してかかれているということは、その多数の中に自分の周囲の人間も考慮に入れなければならない。
時々『身内バレ』が原因となってサイトをしめる人がいるみたいだけれど、その『周囲の人間』を忘れているが故じゃないのかな、と思っている。
コミュニケーションはあくまでも『周囲の人間』を媒介として『周囲外の人間』になされるものではないか、なんて僕自身は考えているのですが……。
しかしそれと同時に、動機が『被害者にネット上で中傷された』ということにも考えてみたい。
どの程度の中傷なのかはわからないが、おそらく加害者の日記レベルの中傷だろう。
ただ、思春期の児童生徒の感情はこうした些細なことからも簡単にねじれやすく、
それは昨今のいじめ問題が示していることからもいえるだろう。
そうでなくても、現代社会において感情をストレートに表現するのは難しく、
同時にそのようなストレートな表現に対する免疫が低下していて、それ故に過大な負担になったんじゃないかな、とか漠然と考えていたりする。
コミュニケーション文化論とか学んでいる人なら何とかなるんでしょうけれど。
でも、やっぱり問題はそれがどうして『殺すもの・殺されるもの』になってしまったのか、僕にはどう考えても結びつかないのだが……。
というわけで、少年犯罪の問題についてはまた後日。この話、もう少し続きます。
*1:しかもその人は実在するから始末が悪い。