180の夜を越えて

 ……あれから半年経ったんだな、と改めて思う。この際なので、3ヶ月前の『震災本』にて公開した文章をブログにて再掲したい。3ヶ月前の話なので現在とはかなり違う状況になっている一方、3ヶ月経った当時を振り返る意味で掲載したいと思う。当然僕の事実誤認党もあるが、その辺はご指摘のあり次第随時注釈などを加えたい。その辺が拙い言葉なのは申し訳ないと思う。

 なお、この『震災本』での売り上げは文フリ売り上げ全額、岩手県義援金本部に寄付させていただきました。夏コミ分も追って寄付予定です。




九十の昼と九十の夜


・予兆


 実は、話は三月九日に遡る。ちょうど仕事で秋田にいた僕は、午前十一時四十六分、自分のいる建物が大きく揺れるのを体験した。テレビをつけると、生放送のアナウンサーもテーブルを抑えている。これは大きいな、と思い、実家にも連絡をいれたが無事だと言う。震源秋田県沖だっただろうか、じっくりと大きく揺れる建物。これほどの大きい揺れは数年ぶりだなー、とある意味のんきに構えていた。先週末にガソリン値上げの連絡が入ったので幸い車は満タン。実家も思い出したように汲み置きの水を変えておいた(僕の実家はオール電化かつ、上水道が通っておらず井戸からのポンプ汲み上げのため、停電になるとほぼ全てのライフラインが止まってしまう)。

 ……まさか、それ自体が二日後に起こるあの震災の大きな予兆になるとは全く予想し得なかったわけで。


・はじまり


 2011年3月11日午後2時46分。仕事場の事務室でいつも通り作業を行っていた僕。正直、年度末と言うこともあり書類の整理をきっかり残り三週間で仕上げなければならない、とかそう言うかなり厳しい時期だったりした。そろそろ夕方だしと思い一息ついた頃に来たあの震度7。当初はあ、また大きめかな、ぐらいに思っていた僕。三十秒経っても揺れは収まらない。岩手は元々震度5クラスの地震が数年に一回ある場所であり、数年前にはきっかり60日に一回地震が発生するというケースも発生していた。従って今回もだいたいそんな感じかな……と思いきやどうやら様子がおかしい。ここまでくればどんなに鈍感な人間でもその「ヤバさ」に気づく。僕は慌てて駐車場の外に出た。地面が大きく揺れている。僕の会社のあるあたりは山の中で地盤が頑丈だと思われたが、それでも揺れる。駐車場のど真ん中で地べたに這いつくばって揺れが収まるのを待った。

 それから二、三分経っただろうか。机の上から少しだけ崩れた書類を片付け、ボイラーを消す。五分も経たないうちに二回目の大きな揺れが発生し、また再び駐車場へ。そこでついに電気が落ちた。無停電装置につながっているPCやサーバ、ノートPCの電源を確実に落として行く。テレビは見られないし、山の中であるがゆえにワンセグは圏外。頼りになるのは残りバッテリー三割を切ったiPadのみ。Twitterで次々と流れる実況、飛び交う安否確認。とにかく急いで連絡を取るべく、携帯にiPadから送信(コミケや新年の経験上、電話が役に立たないのは十分承知の上だった)。とにかく上司や同僚からの連絡を待つ。

 TwitterではNHKユーストリーム中継してくれている人が現れており、それをみると衝撃の映像が流れていると言う。僕も見てみた。そこに映されたものは、濁流を流れ続ける自家用車。呆然とただ見ているしかない僕。電気も落ちて薄暗い社内に一人残され、仕事をしようと言う精神的余裕は既に無かった。

 次々と上司や同僚が帰社し、状況を確認する。上司はちょうどその時、(固有名詞を書いてしまうが)岩手日報の印刷所におり、建物の上の高い避雷針が右左に、そのまま折れてしまうのではないかと思ってしまうほど大きく揺れていたと言う。同僚は車の運転中、最初はパンクか何かかと思ったがすぐに地震だと気づき、路肩に止め間一髪。先ほど出たばかりの得意先に戻ると、機会が大きく倒れていたと言う。とにもかくにも全員気をつけて戻るようにと言うしかなく、幸い少ないメンバーで構成されている我が社はすぐに連絡を取り合うことができた。

 その日は結局、翌日の対応と言うことで解散した。


・光の落ちた夜


 普段停電と言っても結構さっくり復旧するものだが、その日は夜になっても電気が戻らない。都市ガスのためガスを使うのも怖かったのでその日は冷や飯を無理矢理かきこんだ。ちょっとすると上司がコンビニに同行してくれと言うのでついて行く。すると、見事にものがない。店に寄っては早々に閉店を決めたが、ハンディターミナルを駆使して仕事に励んでいる。これはありがたい。そしてものは既に、一部の駄菓子を除いてほぼ全てなくなっていた。くそう……。

 で、この停電。当初は翌日にはいくらなんでも直るだろう、と楽観的に構えていたが、丸一日経っても直らない。実際復旧したのは震災後48時間経ってからだった。もちろん、市内中心地に近いところは若干復旧は早かったが、それでも30時間後。僕や同僚の実家では50時間、70経ってからだった。もちろん、2000時間経過した今なお停電のままの場所があるのは承知の上で。


・物がない


 内陸部が一段落した以上、沿岸部にも目を向けねばならぬ、と言うことで物資をかき集める。カップラーメンの類はだいたい販売制限がかけられていたため、複数の店で少しずつ買うという手を用いたが、なにぶん絶対量自体が少ない。従っていろんな店を回ることになったのだが、最後のイオンでなぜかカレー焼きそばが山積み。これ幸いと販売制限がかかっていないことを確認の上で数箱購入。うーん、やっぱりこれは何だ、変な物はみんな好かないのか。

 そして、土日をはさんで急浮上した現実が「ガソリンが足りない」。ガソリンが足りないと言うことは、主要公共交通機関がバスぐらいしかない岩手県民にとってはかなりの死活問題だ(少なくとも、岩手県内の駅は首都圏の一駅歩く感覚のところには立っていない)。そのバスもガソリン不足でダイヤの大幅な乱れが懸念される。そもそもこっちの交通手段は車だ。従ってどうしてもガソリンを求めて千里を走ることになる。朝五時六時に並び、開店の午前九時をひたすら待つ。ガソリン節約のためにエンジンをかけてエアコンと言う手も使えない(実際、社内で七輪を炊いて中毒死された方もいたようだ)。寒さと暇との戦いはそれから三日間は続く。自家用車もそうだし営業車もガソリンがないから社内総出と言うことになるのだが。木曜日になるとガソリンも尽きたからどうしようもなく、正常化を待つしか無かった。ちなみに僕の自家用車は前述の通り一週間前に満タン済だったため、無理せずガソリンの復旧を待つことにした。並ぶのやだし。

 ガソリン復旧には二週間かかり、タンクがカラになった僕の自家用車も無事再度満タンに。もちろんその二週間の間は……もちろん、毎日毎日ガソリンスタンドに並びっぱなしである。ここでもTwitterが役に立った。あるいみ「なのは完売」ならぬ「ガソリン完売」の高度な情報戦が飛び交い、ガソリンに対する情報交換を行うことになった。

 それだけではない。物が入ってこないのはガソリンだけでなく、首都圏から物が届かないのだ。今回の震災に対し、物資を発注したところ明日の出荷になると言う。それで間に合わなくなるんじゃないか、と言うと「間に合う」という。では翌日電話をかけると……「福島原発対応のため自宅待機としました」…………○ねばいいのに。

 その中でも物流各社は本当にがんばってくれた。実は、ここに日本の底力をみている。ガソリンが元に戻った瞬間、麻痺していた物流がほぼあっさりと元どおりになったのだ。当初は「翌日指定でも物は届かないかも」と言う話だったので指定は特にしなかったが、それでもあっさり翌日配達に戻った。ここまでくるともうすげー、としか言いようがないよなぁ。


・それは本当に天罰だったのか


 震災直後、問題となった発言に「震災は天罰だと思う」という石原慎太郎都知事の発言が波紋を呼んだ。一応の謝罪と、その後の都知事選の大勝を経て忘れ去られた形になっているが、お前被災者に対して面と向かって言えるのか、とたいそう罵倒されたものだ。

 で、多分ご存知の方も多いと思うが、この発言のあとには「そう思わないと被災者の方が浮かばれない」と続く。僕個人的には、なんとなくこのあとに続いた方も含めて考えないと、石原発言の真意は読めないんじゃないかと思った。発言が「人間(おそらく戦後現代日本人という彼の考え方だと思うが)の罪を洗い出そうとしている」ことに触れると、政府のノロノロとした対応や東電の体質、そして原子力に関する意識の甘さを浮き彫りにしてしまった(石原氏が原発推進派だと言うのが非常に皮肉な話ではあるのだが)。

 従って、天罰と言うには、この震災は適切ではない、と僕自身は思う。本来、罪に対して与えられる罰のはずが、罰が与えられた事で罪がつまびらかになってゆく。そして罰の対象と罪人は(全く包含関係にないとは言わないが)一致していないと言う罠。それを因果関係で説明するにはあまりにも不条理すぎる。

 ならば、天罰とは何だったのだろうか? あるいは誰に対しての天罰だったのだろうか?……その答えは未だに出せずにいる。


・内陸と沿岸部を隔てる大きな壁


 がんばろう、と内陸の人間は言う。

 これ以上何をがんばれと言うんだ、と沿岸の人間は言う。

 自粛せず、盛り上げよう、と内陸の人間は言う。

 何もできないなら、せめて自粛してくれ、と沿岸の人間は言う。


 震災から一ヶ月、花見のシーズンに岩手県議の一人*1が沿岸で花見をしよう、と持ちかけ、ものを用意し、実際に開催したという出来事があった。その県議は内陸部の人間。同時に応援ツイートも多かった。しかし、実際に開催される沿岸の人間からは、あまり賛同する意見は得られなかったという。

ご存知の通り、岩手県は北海道を除く全都府県の中で一番広い。そして、内陸部と沿岸部は北上高地という山地で隔てられている。実際、震災直後はこの山地で交通が分断され、沿岸部と内陸部の往き来が断たれた。

 そして、この温度差は今なお続いている。実際、テレビは頑張ろうとは言わず、手をつなごう、ひとつになろうというフレーズに転換し始めた。これは言い換えれば、実際のコンテンツホルダーが多くいる内陸の人間が配慮した結果じゃないのか、温度差に気づいた結果ではないのか、と考えた。

 正直言うと、僕も頑張ろう岩手と言うフレーズには違和感を覚えていて、冒頭であげたような「これ以上何をがんばれと言うんだ」という感情を隠せずにいる。僕がうつ傾向にあるからかもしれないけれど。


・そして隔絶が生まれる


 岩手県内ですらこんな状態なので、被災地三県で足並みが揃うわけがない。特に、原発を抱える現在進行形の福島と、いざ復興モードの岩手宮城。福島の原発ムードは、そのまま他の被災地が影に隠れてしまうのではないかという不安があるのだ。

 岩手の被災地は主に沿岸部の漁業集落。宮城は仙台市そのものが甚大な被害を受けている。福島は原発浜通り、都市部の中通り、内陸部の会津という三種類の被災地が存在する。繰り返しになるが、県内ですら。いわんや東北をや。どうしても被災地の事情で東北六県は一緒にされがちだが、何せ広い東北、これだけでも正直意思の統一は不可能なのではないかと思っている。

 現に、新聞報道で岩手・宮城の話題にどれだけのページが割かれているか?震災翌日に福島にすっ飛んだ菅直人が、岩手にはなぜ三ヶ月経ってから慰労にきたのか? 一方で、菅直人を批判する人間のどれだけがお前ら岩手宮城に目を向けてきたんだよ、と言う違和感がないわけではない。菅直人の態度は、そのまま首都圏の人間の態度じゃないのか?どんな同族嫌悪疑惑があったりするのである。

 これらの細かい隔絶は、ウチとソトという分け方を再び顕在化させたのではなかろうか。東北とそれ以外、三県とそれ以外、内陸部と沿岸部……これらの差が「日本をひとつに」を有名無実化させるのが非常に怖いのだ。


・じゃあ、今後どうするよ


 今後の課題に移る。今後僕たちは、この隔絶の解消に取り組まなければならない。福島の食材や瓦礫を持ち込もうとするだけで悲鳴が起こるのは、おそらく子供を持つ親の反応としては正常な反応なんだろうな、と思う。だがその先にあるのは……これはあくまでも個人的な予想だが、おそらくは差別と利権化だ。原発は今までそれそのものが利権として動いてきた。今後はそれが逆の方向に動くんじゃないだろうか。それはまさに日本人をじわじわと追い詰めてきた「非人」の扱い方じゃないだろうか、と思う。それはいつしか非人にしか扱えない内容という逆差別になるんじゃないか……という懸念があるのだ。これが杞憂に終わればそれほど嬉しいことはないのだが、日本と言う国が存在しなくならない限り、今回のウチとソトの顕在化は深い澱となって沈むんじゃないか、という気がするのだ。

 今後、復興作業は数十年と言う時間をかけて行われるだろう。それは、おそらくこの雑文を読んだ読者諸兄が全員この世を去っても終わらないんじゃないか。不安は拡散していく。それは、今後のこの世界の行く末を思うかのように。

*1:のちに本日の県知事選に出馬し落選した高橋博之県議である。