あぶない刑事・富豪刑事・サムライ刑事(刑事三段活用)

 空と海と大地と木曜日。今日で京都地検の女富豪刑事の2作が終了したわけですが、推理の面白さ、役者の演技はどちらも『京都地検の女』の方が上だった気がします(むしろ富豪刑事がしょぼ過ぎたかも知れない)。筒井さんは最終回で意気揚々と出てきましたけれど、これで本当に満足なんだろーか? と勝手に思ってしまうわけで。いーんです、夏八木勲さんのためにあるドラマなんですから(極論)。


 ライブドアはどーやってリーマンから巨額の資金を借りられたのか? という疑問にやっと納得がいきました。→しょうさんのサイト。要するに高リスク高リターン狙いってわけですか。まぁ、「私は負けたことがない」とか言いつつプロ野球ではあっさり敗れ去った堀江さんのことですから、言わずもがな、というところでしょう。多分ね。


 良く日本の学力が下がったとか勉強しないとかこの時期になると新聞があたかも煽るように書き立てているけれども、果たしてそれをゆとり教育のせいだけにしていいのか? と僕は思う。やはりゆとり教育自体が『80年代教育戦争の反動』から来たものだから、おそらくこの先『90年代ゆとり教育への反動』という形になっていくとは思うけれども、この間にあった『勉強を楽しいと思うか』についてはおそらくここ20年ぐらいはあまり結果は変わらなかったろうと考えてしまう。『将来に対する希望』が減っているのは決してゆとり教育のせいではない。もちろん職業教育に対するテコ入れは必要だと思うけれども、だからといって『政治に関心ありませーん』『働いたら負けかなと思ってる』とか言われ続ける背景を作ったのはいったい誰か? 希望が学歴だけだった社会が崩れ去れば、当然そこには将来に対する漠然とした不安だけが残ってしまう。今までがあまりにも一点集中しすぎたのだ。逆に言えば、それだけに集中していれば良かった部分もあったといえる。それが『ゆとり』の方向に拡散したことで現場が『何をやったらいいか分からない』状態になり、基礎学習も総合学習もどっちつかずになってしまった面があるのだ。このままで『ゆとり教育の転換』をすればすぐに学歴社会が復活することは分かり切っているし、おそらく『勉強が嫌い』な子どもはこれからも好きになることはないだろう。むしろ勉強しなくても生きていく知恵を身につけなければいけない時代になったんじゃないかなぁ、とプータローが戯言を吐いてみるわけでありました。このような分析が『ほらやっぱりゆとり教育をやったから日本人はアホになったんだ』みたいに考えられるとどうなのかなぁ。


 教育といえばそろそろ歴史教科書問題の季節にはいるわけですけれども、おそらくいつも通り日本VS韓国の中傷合戦が繰り広げられることでしょう(さらに公民だけでなく地理にも飛び火しそうな雰囲気。だからさっさと扶桑社は『竹島尖閣諸島北方領土は日本固有の領土です』とか『中韓の主張には何の歴史的根拠もありません』とか明記した新しい地理教科書を作ればいいと思うのですが。もう作ってるのかな?)。ただ、ここでやっぱり気になるのは今ですら評価が定まっていないものを生徒に教えるべきなのだろうか? ということ。ここまで複雑化してしまうと、20世紀は年表だけ示して終わりでもいいんじゃないか?(だって受験では用語さえ覚えていれば大丈夫なんだし)と勝手に考えてしまうわけです。本当にそれは侵略だったか? とか考えていけばきりがないのに、一方の教えられる生徒たちには事項さえ覚えていればプロパガンダなんて、という齟齬が生じているわけです。教科書も本当は現場にあわせて作るべきなのに、これが外交問題に発展している以上、既に教育は子どもたちの手にはないのだな、と考えてしまうのです。なんだかなぁ。