文学を表現の概念まで広げすぎるのは危険なんじゃないか仮説

 特に他意はありません日曜日。本日のガタケットにお越しいただいた皆様、本当にありがとうございます。諸般の事情から次回のガタケット100は欠席となりますが、新潟地元はその2週間後にコミティアin新潟があるので、それまですみません、一休みということで。……次回のイベントはいよいよ夏コミですよ! 夏コミ!……とりあえず印刷所は抑えたので、書き下ろしを一つ入れる予定でがんがります。……入れなくても結構分厚い本になりそうなので非常にびくびくしていますが(苦笑)。印刷代&入稿の楽さ&〆切の自由度の三要素を考えて、今回も冬コミ時にお願いした印刷所に頼もうとは考えています。非常に気配りをされるところで、僕自身としては平身低頭してしまうほど、というのもあったのです。こういった細かな気配りって有り難いですよね。いや本当に。


 僕自身は小説を書くことの前提として読者を楽しませたいというのがあるので、どちらかというと結構エンタメ寄りの発言をしてしまうかも知れません。だからといって私小説や純文学を否定することは全くありません。ただ、僕自身は読者を楽しませたいの前提として自分が楽しみたいというのがあります。自分が読みたくない本を誰が読んでくれるというのだ、というのは極論かも知れませんが、僕の創作姿勢の前提ですね。創作姿勢なんてものは十人十色なので、誰に聞いても違う答えが返ってくるでしょう(似通う可能性はあるとはいえ)。だから、人の創作姿勢についてちくちくするつもりはないけれど。この辺、ちょっと考え直してみたいとは思いますが、深く考えてもしょうがないからなぁ……。


 そろそろニコ厨ぐらいはしないと。